比那神社について
拝殿より鳥居を望む
「比那神社」が鎮座する姫原町は比那鳥命(ヒナドリノミコト)に由来するとされています。「比奈原(ヒナバラ)」が「姫原(ヒメバラ)」に訛ったことによるとされいます。
*康正三年から万治三年(1457年~1660年)に起こった洪水以前には此地は「比奈原村」と呼ばれていました。
御由緒
当社は出雲風土記及び延喜式に所載の古社にして御祭神は比那鳥命、別名を 武夷鳥命、武日照命とも申し日本書紀に明らかなり。即ち天照大神の御子天之穂日命を父神として天孫降臨に先立ちこの出雲国に降りて大国主命に対し國土奉献の使者の任務を平和裡に遂行された軍使の神で後、此処比那原の地に宮造りし鎮座し給う。
当社は天平5年(733年)の『出雲国風土記』に「比奈社」として、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に「比那神社」として記されている古社で、祭神の比那鳥命は、この出雲国に天降り大国主命(オオクニヌシ)に対して国譲り交渉を行いその後、比奈原(姫原)の地に宮造りし鎮座されたことが始まりと云われています。
出雲風土記に、在神祇官と載せられたる神祠にして、文徳天皇の嘉祥四年正月に正六位上に叙し奉り、宇多天皇の寛平五年更に一階を加え官社に列し重く神祇官に祭らせ給えり。
祭神比那鳥命は又の名を武夷鳥、武日照、建比良鳥、背脛、天鳥船命と称え奉り天勅を奉じ父天穂日命に順い、御譲國の大事に預り坐して大功を奏し坐せり。
その縁由により此國に留り出雲臣等が祖と成らせ給えり。当地は簸の大川の西岸に在り、武志浜及び稲佐浜の南方にして、出雲民族の繁殖するまにまに祠檀を造りて齋い奉れるなり。
然るに簸の川屡々氾濫し社頭荒蕪に属せんとするとき、貞享二年郡吏山崎時熈氏子を督励して御社殿を再興し奉れり。爾来著大なる異変なく、明治五年村社の列に入り給う。
主祭神
比那鳥命
比那鳥命(ヒナトリノミコト)は、武日照命(タケヒナテルノミコト)、武夷鳥命(タケヒナドリノミコト)、天夷鳥命(アメノヒナドリノミコト)*¹とも、天日照命(アメノヒナデリノミコト)、建比良鳥命(タケヒラトリノミコト)等とも呼ばれ、天照大神と素戔男尊が誓約をしたときに生まれた天穂日命(アメノホヒ)の御子*²であり、この出雲国に天降り大国主命(オオクニヌシ)に対して国譲り交渉を平和裡に遂行された軍使の神とされています。
*¹日本書紀崇神天皇六十年紀の詔 『武日照命、一云武夷鳥、又云天夷鳥』
*²新撰姓氏録左京神別 『出雲宿祢天穂日命子天夷鳥命之後也』
御神紋
亀甲に剣三つ柏
古くは神前に食べ物を奉げる際に、柏の葉に食べ物を盛っていたことから、柏が神聖視されるようになり、柏の葉が紋様として取り込まれたと云われています。現在でも社家に多く見られる家紋です。
亀甲紋は出雲地方の神社に多く用いられています。古来より長寿のシンボルとして尊ばれ、易学においては「玄武」として北方を鎮護する霊獣として尊重されていた亀の甲羅の模様を文様化したものとされています。又、出雲大社の御神紋が亀甲紋になっているのは、海蛇の尾に浮かぶ亀甲模様をかたどったとも言われています。